炎症性腸疾患(IBD)のひとつである潰瘍性大腸炎(UC)と特発性大腿骨頭壊死(ION)の人のちょっとした日々。
本の感想を主に書いてます。
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密送航路
  フィリップ・カー初挑戦。

 いやーおもしろいです。あらぬ罪で5年間刑務所に服役していた男が5年の間に徹底的にロシア語を勉強し体を鍛えて、シャバにでてその仇をはらしにいくという話。格好いい!何度も「5年という月日は十分長かったぜ・・・」みたいなセリフが出てきて格好いい。そして私もある意味の懲役中であるからだ。
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新釈 走れメロス
  表紙もいいし中身にも絵が描いている。

 自分は桜の森の満開の下が一番良かったです。山月記は原作を愛しすぎているのでそれをもちろん越えられない。いや越えることを目指しているのではないのだが。それにしても森見、愛すべきトホホである。
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ニート
  あんまり?でした。
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1Q84 BOOK2
  ↓BOOK1参照。麻薬であり、睡眠薬であり、鎮痛剤。
 

村上春樹の小説に出てくる主人公は、いつだってタフでクールだった。常に自分に厳しく律することが出来て、時には自分より「ルール」を優先することが出来る。想像について思いをめぐらせることができる。クラシック音楽を愛好し、サンドイッチをこよなく愛す。しかしある時自分の影の薄さに気付いて、影を失ったまま生きることが出来るのかということについて思索する。自我のない世界、そして彩りのない世界だ。また、彼らのまわりには既に影を失った人が取り巻く。その後の人生を影を失ったまま生きてきたことが、えんえんと続く後日談のように干からびた表現でもって語られる。そして、一度失ってしまえば、それは決してもとに戻れないのだ、彼らはと言う。逆方向の矢印は作用しないのだと。

 1Q84ではその影をドウタと名付けて語られた。その影の母体となったマザには手出しをすることが出来ないが、リトル・ピープルはマザの脆弱な部分から蝕んでいってしまう。時に友人を発狂させたり、殺させたり、消えてしまわせたり、お腹に爆弾を仕込んで爆発させたりする。それを目にしたマザは、自分が傷つけられるよりもずっと深い悲しみを感じる。同時に、広い網がこの世界には張り巡らせているのだということを知る。何処へ行ってもその網からは逃れられない。マザとしての自分は肉体の凌辱は「かつてあったもの」として位置づけることができるが、その後も意識の凌辱からは逃れられない。ドウタは今でも父なるものと「多義的に」交わっているし、マザである自分と交流したものの脆弱な部分は確実に失われている。そして失われたのはマザである自分の所為なのだ、と考えるようになる。これは警告なのだとマザは思う。お前は何処へでも行くことができる。名をかえて、顔をかえて、別の人になりすますことだってできる、けれど同時にお前は何処へでも行く事が出来ないのだというリトル・ピープルからの警告なのだと。

想像と不可逆を村上春樹は描いてきた。小説の中で描かれた出来事はもちろん想像であり、現実の世界ではない。けれど、現実におこっても可笑しくはない出来事であったのだ、と彼は何度も言ってきた。これは小説の意味引きにおいて当然のことだ。もちろん想像がベースとなっていることを承知であるから、読者も現実では不可能と思われることがすんなり受け入れることが出来る。月が二つに見えたり、アイスピックで一瞬で人を殺したり、高速道路の真上でヘックラー&コッホを口内に入れるということも。ただ彼の小説では、すべての出来事がフィクションであるという意識を共有しているにもかかわらず、起こるべくして起こったものであり、決定的であり、それ以外にはありえなかったのだということを、感じずにはいられない。人生がカセット・テープのように巻き戻しが可能で、ある部分から再生が効くなんて誰も思っていない。そんな都合のよい事なんて出来るわけがないだろう、と思うだろう。それでもわれわれは、時々その可能性について試案せざるを得ない。子どもの時に帰って勉強出来たなら、あの時彼女にプロポーズしていたなら、あの時子供を産んでいたなら、ということを日々思い巡らせている。もっとより良い、別の人生があったのだ、と幾分懐かしむことだってするかもしれない。それでも巻き戻しは不可能であるから、今持っている、あるいはこれからまだ掴むことが出来ると推測されるハードルの低いカードの中で適当にやっていくしかないと思っている。われわれの人生にとって不可逆というのは当然の意識の共有であるからだ。しかし、村上春樹の小説の中の登場人物はカードがあるなんて、選択が可能であったのだなんて微塵も思ってもいない。彼らはある種宿命づけられた線を辿っていくだけだ。もちろん彼らは小説というフィクションの世界に生きている。フィクションの世界は作者の想像の世界であり、どんな職業も、どんな立場も可能である。それにもかかわらず、否、どんな場所にいても、どんな生き方をしていても、その他の生き方は存在しえなかったのだ、と私たちに思わせる。宿命づけられた線とはわれわれの使う言葉に合わせると、決められたレールという言葉になる。ただ決められたレールという言葉よりは、ずっと彼らは努力した結果辿っている線という気がする。彼らは自分の住む世界に時折不満はあるものの、ある程度は満足している。そして定まった仕事をなるべく努力して良い方向に導こうとする。けれど、時折ふと眼をやると影が他の人より薄いことに気付いて、この世界は不可逆なのだということを改めて思うために、過去を想像することは決してない。ゆえに、すべては必然的であったのだと思わせる。


 1Q842回読んだ。一回目は前から順に。二回目は青豆の部分だけをまず読み、それから天吾の部分だけを読んだ。この小説の中では村上春樹についてはこれまでほとんど呈することがなかった父なるものと愛について描かれている。青豆の父、天吾の父、ふかえりの父、さまざまな父なるものに彼らは「損なわれて」いる。失われているといっていい。そして愛については、愛している、という言葉が出てきたのが驚きだった。これまでも村上春樹の主人公たちは然るべき相手を然るべき方法できちんと「愛して」いた。しかし好きだという言葉ならまだしも、愛しているという言葉は決して出てこなかったし、寧ろ避けているようにも見えた。NGワードであるようだった。愛しているという言葉を使わないで、彼らはその行き場のない思いに対して思案しているように思われた。行き場もなく、名前を付けることも出来ない思いであるかのように。ここでは青豆と天吾が10歳の時の教室で手を握った瞬間からどこへも行く事が出来ない様を描いてる。けれど、青豆は確かに「愛している」という。何故そうはっきりと言えたのか、と思う。天吾もやはり愛しているとははっきり言わないまでも、最終的には彼女を探さなければならないという決定的な思いにとらわれることになる。彼らの描かれている性格からして過去を鑑みるということ、このことはありえないことであるが、「損なわれて」「失われた」彼らが、ある一点のイメージに支えられて生きているからそう言えたのかはわからない。小説の中でも二人が出会うことはない。ただ、長年出会うことがない二人が互いに思いあっていたという節図はどこのフィクションの世界にもありふれているから、なぜここで「愛」というものがこういう脆弱な形で描かれなければならなかったのか、ということに私は興味を持つのである。すべてが計算されており、緻密であり、全身で書かれた小説だと思う。それなのに、どうして愛というものがこんなにも弱弱しく当然のような形状で出てこなくてはならなかったのか。

 ちなみに私がこの小説の中で一番好きな主人公はプロフェッショナル・タマルである。タマルについても追々書きたい。

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1Q84 BOOK1

 回復のために時間を要す小説というものがある。1Q84はまさにその小説であったと思う。金曜日の昼、1時から読み始めて4時半に一端休憩をして、その後5時半まで読んで上巻を終えた。その後8時から下巻を読み始めて、途中風呂に入り、日付を超えて0時半にすべてを読みきった。その後就寝したけれど、朝起きても二日酔いのような眩暈がした。午前中リハビリがあったので何とか起きていたけれど、空気さなぎとコミューンと数学と歴史と筋肉とパシヴァとレシヴァとめくらのやぎと千倉とリトル・ピープルのことばかり考えていた。その後昼からも気持ちが悪くて、ご飯を食べたあと死ぬように寝て起きたら夜だった。回復のために、松岡正剛の多読術というちくまプリマー新書の本をちらっと読んだが、これが回復にも何にもならなかった。寧ろその帳を深くした。ちくまプリマー新書は児童書扱いであるが、これは内容的に児童書では決してない。早くこの気持ちを言葉にしてまとめなければならない、と思っていた。けれど、どんな言葉も紡ぐことが出来なかった。夜にはある人に手紙を書いた。次の日、久しぶりに友人と会って会話したことにより言葉を取り戻すことができて、帰ってきてからプリマー新書の続きを読んだ。

 一読して、全体小説云々よりもこれは非常に危険な試みではないのかということを感じた。村上春樹にとっては非常に危険を冒して、そして真冬の夜のように冷酷な決意と決して揺らぐことの無い硬い意思のもとにこの物語は作成されたのであるということを感じずにはいられなかった。

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海の仙人
  とりあえずこれで今週分は終了の絲山。

 舞台は敦賀である。敦賀というまち、わたしは金沢へいくためのサンダーバードの通り道といった程度にしか解釈がないのだが、原子力発電所といえばここという感じがする。敦賀でアパートを経営していて性的不能の男と、そこにきたばりばりのキャリアウーマンのお話。キャリアウーマンは年上で美人なのだが、乳がんにかかって最後は岡崎のホスピタルで死んでしまう。絲山さんにしては正統的に病気を悲しみ、死を弔っているところに意外さを覚えた。そして性的不能っていうのも、ちょっとありがちな曰くつきの過去という気がした。でもやはりふとした時にあいた心の穴みたいなのを埋める作業を永遠にし続けていく彼らに共感を覚えたり。うれしいやらかなしいやら。しかし敦賀というか群馬というか博多というか・・・そういうところばかりが舞台だ。この人は結局とかいという場所をを信じていないからだなと思う。そして私も信じていない。
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ダーティ・ワーク
  またまたまた・絲山です。

 短編なんだけど、最初はすべてが別の話だと思って読んでいたら、途中でその線がつながってきて、え・え・え!となって、最後はTTと出会うことができる。主人公は女のギター弾きなんだけど、本当諦観に満ちていてこんなあたしでも食っていけるんだからなんとかなるよ、なんて言ってる。で、よく男に間違えられたり、凄いショートットで太田りなちゃんみたいな風貌がいいと私は勝手にキャスティングしてた。その子供をもつことへの恐怖というか、不快感が痛烈に感じました。わたしもかわいいとは思うけれど、一方でその恐怖を感じたりするのです。とにかくこの話がとても好き。
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逃亡くそたわけ
  またまた・絲山月刊

 ロードストーリー的なのは小説であってもエッセイであってもとりあえずなんでも好きだから、とても期待していた。主人公は精神病院からある男と一緒に脱走するというお話。青い鳥にもあったように、行き場をなくした人間というのは北をめざすものだ、ではなく、九州をどんどん南下していくのだ。最後にマップがあるのだけど、本当九州だけは苦手なんですって言えるくらい苦手なので、読んでてあまり地理がわからなかった。行ったことないし。筑豊ナンバーはここまで追っかけてこない、っていう文があるのだけれど、筑豊ナンバーの範囲がわからん。でもその男の設定も名古屋人で東京が大好きで、っていうのが良かった。名古屋コンプレックス。
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ラジ&ピース
  また・絲山秋子。

 ラジオDJをしている主人公の話。仙台に住んでたんだけど、群馬に引っ越してきて、そこで新たに仕事を始める。知り合いもだれもいない町。だけど、今まで一人だけつきあったことのある、美大夫のことを忘れられない。美大夫は何も言わず黙って、「俺の。」って言って自分を抱き締めた。そんな風にいってくれるのは美大夫しかいないんじゃないか、って今でも思っている。そして幼い時から美人で要領がよい妹が自分のことを羨ましがるのをおかしいと思う。妹が流産して気持ちが草臥れてしまったのを何とも思わない、そしてまた新たに子供が出来て、けったいな名前をつけて、その子供のために両親も妹もみんながその子供のために下手な愛嬌をふりまいているのが信じられないと思う。この辺ものすごくわかる〜って思った。この俺の。っていうの、本当やりきれない気持ち。この話が今回読んだ中では一番好き。
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袋小路の男
 続・絲山秋子強化月間である。

 これは何年も決して触れ合わない男女の話。じれったいといえばじれったいのだけれど、先輩は先輩で、わたしはわたしでお互いのことを思いやってるんだけど、っていう。先輩が小説家めざしてるんだけど、途中で入院したり、ってまた病気かよって思うな。いや、絲山作品読みすぎだからかな。本当このひとの作品て病気の人がよく出てくるんです。この微妙な男女の距離みたいなのをこの人はいつも書いている気がする。
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