炎症性腸疾患(IBD)のひとつである潰瘍性大腸炎(UC)と特発性大腿骨頭壊死(ION)の人のちょっとした日々。
本の感想を主に書いてます。
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惜しまずに与えるものは、常に与えられるものである。
  風の歌を聴けの映画版を見た。何年も前から、ずっと見たかった映画だ。いろいろなところで酷評されていたからあまり期待していなかったのだけれど、十分楽しめたし、十分原作の世界が表現されていたと思う。冒頭でデレク・ハートフィールドの文を引用したりする手法は、その当時では新しかったらしい。今となっては少し粗い造りに見えるけれど、それもまたいいのかもしれない。主人公らのキャスティングも功を奏してる。小林薫 真行寺君枝巻上公一が、すっぽりと世界の中に納まっている。そうだ鼠はやっぱり成り上がり精神に満ちている顔じゃないと駄目だ。僕よりも饒舌で、資本家の犬ということを自覚しつつ資本家を嫌う。小説では小説を書いているのだが、しかし映画版では鼠は掘るHOLLという映画を作っており、わざわざ作るんなら自己啓発されるような映画じゃないとだめだ、と言う。僕はそれに対してなにも言わない。そうだ、と真摯に心の底から頷くことも、馬鹿らしいということもない。でも、結局ジェイズバーで彼をずっと待っていたり、女と別れたり、彼のせいではないことではあっても自分のせいだったのだと言い聞かせるような人並みの傷は持っている。そして言っていたことをすぐ変更する、僕が東京へ帰る日にも恥ずかしがり屋だから、迎えに来ることはできない。そのひとつひとつが十分すぎるほどに伝わってきた。もう少し私が若かったら、鼠の不器用さを見ていられなかった、と言えるだろう。あれを単品で見るからだと思うんだけど、読者は僕と鼠の話はそれからダンスダンスダンスまで引き継がれることを知っている。鼠は金持ちから逃げ出すために、自分ひとりで街を出て暮らすことになるが、結局は自滅してしまう。世の中の犬や、資本家たちに反しようとして結局はもっと窮していってしまう。つまりは、自己啓発なんてしなくてもよかったし、未来のことなんて考えなくても良かったのだ、と生き残ったものが正しく、死んでいったものが過ちならそう思うかもしれない。けれど、そんな簡単に結論を出せるほど、安易な問題ではないのだ。彼は彼なりにベストを尽くしたし、という言葉はよく村上春樹の中で使われる言葉だけれど、そういう生き方こそが鼠なりのベストだったのだ。

 そして小指をなくした女の子の真行寺君枝がさりげなくとても美しいと思う。ウィキで調べたら村上春樹のお気に入りの女優さんらしい。ぷぷぷ。好きそう。最後に僕と抱き合っているシーンで、手術したのよ、子供?、そう、っていう掛け合いで小林薫がその返事に彼女をきつく抱きしめるところが良かった。何も尋ねないできつく抱きしめることがとても良かったのだ。このシーンすごく目に焼き付いている。大変だったね、残念だったね、痛かったろう?そんな言葉なんかじゃなくて、ただ抱きしめられることを彼女は望んでいたし、彼はそうしてあげることができた。それだけで少し救われる。でも抱いていた彼女の指はちゃんと5本ある。彼女が双子のかたわれということはわかったけれど、レコード店で働いていたもう一人も実は彼女の双子だったのだ、ってイメージが出てくるのだけれど、ここまで自分は気付く事ができなかった。す、凄い!そして、僕にカリフォルニア・ガールズを貸した女の子は病気で大学を退学している。この子とはまた別の子でラジオから流れるのは、難病に侵された17歳の女の子の話で、最初はこの子自身が僕に貸した女の子ではなかったかと思った。しかし年齢が合わない。しかしこの子の姉もこの子を看病するために大学を辞めました、というのはそうではなかろうかと思わせる。原作にはこの辺は一切描かれていないが、映画では、このラジオを聴いている時、鼠が僕に向かって「知ってる子?」と聞く。「半分ね」と言うのだが、半分知っている、それが本当にすべてだと思った。本当にカリフォルニア・ガールズの妹だとしたら、調べて会いに行くことができた。けれど、僕はそういった再会を避けたし、映画自体もそういう劇的な何かを望んでいるわけではないし、しかるべき時期がきたらしかるべき場所へと帰っていく、そういったただの部分を描いていただけだった。もちろんまったく知らない人なのかもしれない。
この小説の最も好きなシーンは、最後にバーテンのジェイが東京へ帰る僕にフライドポテトを持たせてくれるところだ。ジェイは自分は東京オリンピックの年からこの町を出たことがないという。東京は楽しいかね、と聞くと、僕はどこだって同じさと答える。どこだって同じなのだって私も思う。今となっては。そしてピーナッツの殻が敷き詰められたジェイズバーの床までも表現されていることが良い。

  この映画のただひとつ残念な点があるとしたら、ジェイが思いきり頭部が後退したおじさんだったことだ。ジェイはもっと誰そ彼たおじさまであってほしいのだ。

 
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私に与えられたわずかばかりの才能を手放したくなくて
  Ladies in Lavenderを見た。
 イギリス映画で、そこはかとなくもの悲しい雰囲気が流れている。つまんない映画と聞いていたのだけど、十分美しく、十分切ないと思った。アンドレアが女と仲良くしたり、出て行ってしまったりすることを嫉妬に近く思うのは当たり前だ。そして最後の演奏のところ、素晴らしかった。このヴァイオリンと管弦楽のファンタジアという曲が浅田真央ちゃんの2007-8シーズンSPに使われており、その時からとても気になっていたというか、この曲を聴きたいがためにSPを見る始末。もちろん真央ちゃんのプログラムも美しくて、最後のストレートラインステップで鳥になるところがあるんだけど、そこまでのヴァイオリンの盛り上げ方が凄い。つまりはこの曲を聴きたいからこの映画を借りたのだ。その曲を最後にアンドレアが演奏するわけだけど、とても美しい。そしてその後二人とアンドレアは出会うんだけど、アンドレアはアンドレアの世界があって、彼女たちは彼女たちの世界がある、その日常に戻っていくというところが何も後ろ髪惹かれないで良かった。しかしこの映画に紫色のラベンダーは一切出てこない。つぼみだけだ。
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good good
  
「グーグーだって猫である」という映画を見た。あーもうとりあえず死ぬほどグーグーがかわいいよかわいいよかわいいよ。グーグー!猫飼いたいって心底思える映画である。グーグーとはアメショの猫であるのだが、変な模様がお腹にあって、とりあえずなんというかひとことでいうとそれはまあかぎりなくいやおうなく、可愛い。原作の大ファンであるのだが、原作では大島弓子本人=漫画家が、映画では小泉今日子になっており、一軒家に住んでいるはずなのだけれど、一応マンションということになっている。だからちょっと無機質な感じが否めないのだけれど、一軒家だともっとほんわかしたんじゃないかなと思う。アシスタントの上野樹里と森三中も可愛い可愛い。とにかく吉祥寺が舞台で、関西人のわたしには行ったことのない街なんだけど、ちょっと下町みたいな感じでおしゃれなショップとかが沢山あるんだけどあんまり人いないみたいな、そんな感じだと思っていた。が!PARCOはあるし、井の頭公園には桜の季節に15万人の人出でえらいことになっているし、全然都会である、ありえないくらい都会である。す、住めないし、訪ねることさえできんと思う。大島弓子に関しては、違う名前を使っているにせよあらゆる点で大島弓子なのだ。絵も全集も・・・。全集は図書館にあったため何巻か読んだのだけれど、まだ読破していないこれは読まねばと更に思わせた。上野樹里がそのマンガを読むシーンがあるのだけれど、読み終わって、なんともいえずその本を抱きしめながら、ごろんと寝転ぶ。これすごく分かる。大島弓子の漫画はあまりにも体験したことが無い切なさがあって、なんともいえない感動を齎す。誰にも書けない、って思う。胸がいっぱいになって、ほんときゅんて来る。そういう漫画なのだ。読み終わったからってすぐに身体を動かすことが出来ないのだ。偉大だよなぁ。
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